ココカラオオツチ

戦災と津波を生き抜いた
「大槌の生き字引」

佐々木テルさん

ささき・てる

1929年生まれ。大槌町の漁師の家に生まれ、ずっと町内で暮らしている。好きなテレビ番組は「徹子の部屋」で、放送を観た後、おしゃっちで新聞を読むのが日課。クラシック音楽を聴きながら、お気に入りのティーセットで紅茶を飲むのが楽しみ。長生きの秘訣は「何でも食べること」。

佐々木テルさん
佐々木テルさん
戦災と津波を生き抜いた
「大槌の生き字引」

佐々木テルさん

ささき・てる

1929年生まれ。大槌町の漁師の家に生まれ、ずっと町内で暮らしている。好きなテレビ番組は「徹子の部屋」で、放送を観た後、おしゃっちで新聞を読むのが日課。クラシック音楽を聴きながら、お気に入りのティーセットで紅茶を飲むのが楽しみ。長生きの秘訣は「何でも食べること」。

昭和の三陸大津波、太平洋戦争の艦砲射撃、チリ地震津波、東日本大震災津波。3度の大災害と戦禍を生き抜き、女性は家庭に入るのが当たり前だった時代に自立し働いて生きてきた女性がいます。1929(昭和4)年生まれの佐々木テルさん。「大槌の生き字引」と言われるテルさんは今も好奇心旺盛。知り合いとのおしゃべりやクラシックコンサートを楽しむ生活を送っています。

佐々木テルさん
戦時下の女学校生活<br />
艦砲射撃も経験

戦時下の女学校生活
艦砲射撃も経験

鮮やかなグリーンのブラウスを身につけ、さわやかな装いでおしゃっち(大槌町文化交流センター)のエントランスホールに入ってきたテルさん。すぐ近くの災害公営住宅で暮らすテルさんは、毎日午後2時くらいになると、おしゃっちの3階にある町立図書館に来て、その日の全国紙や地方紙に目を通します。震災の翌年から約10年間、専用のノートに新聞のコラムを書き写す日課を欠かすことはありませんでした。

おしゃっちで働くスタッフはもちろん、利用者も知り合いばかり。「テルさん、この前のコンサートどうだった?」などと話しかけられ、時にはショッピングカートに腰を下ろして、おしゃべりに花を咲かせます。

昭和4年、大槌で漁師の家に生まれたテルさんは尋常小学校などを出て、県立大槌高校の前身・実科女学校に進みました。当時は太平洋戦争の最中で、誰もが厳しい暮らしを余儀なくされました。「校庭でみんなで大豆を育てて、食料の足しにして、白米が少ないから海藻をたくさん混ぜて炊いた」。テルさんの記憶は鮮明です。

軍国主義的な教育のもと、体育ではアメリカやイギリスの大統領に見立てた藁人形をなぎなたで突くといった授業もあり、テルさんも「軍国少女」として成長しました。卒業後は、隣りの釜石市にある製鉄所で事務職員として働くことになりました。昭和20(1945)年4月。終戦の4ヶ月前のことでした。

7月14日、釜石は艦砲射撃を受け、約2,600発の砲弾が市街地に撃ち込まれました。標的となったのはテルさんが勤める製鉄所。空襲警報が鳴るや否や、テルさんは職場の人たちとともに防空壕に逃げ込みました。

何時間かたったころ防空壕を出てみると、釜石のまちは火の海で、そこらじゅうに遺体が散乱していました。泣きながら駆け出したテルさんのすぐ上を機銃掃射の戦闘機が飛び、「操縦士の顔が見えるほどの距離」だったことを今も憶えています。同僚と一緒に泣きながら遺体をまたぎ、大槌へつながる旧道を歩き、家までたどり着きました。それでも日本が戦争で勝つことを疑わなかったというテルさん。「今になると馬鹿みたいだと思うけれど。教育ってね、本当に怖ろしいの」とつぶやきます。

終戦、復興、高度経済成長……<br />
働き続けた40年
終戦、復興、高度経済成長……<br />
働き続けた40年

終戦、復興、高度経済成長……
働き続けた40年

8月15日に日本が降伏すると、間もなく岩手の沿岸部にもGHQが入ってきました。「尊敬していたおじが艦砲射撃の犠牲になり、これから先どんな世の中になるのかもまったく分からない。働く気も失ってしまいました」。

製鉄所を辞め、しばらくは仕事をする気も起きませんでしたが、まだ若いテルさんは働いて生活しなくてはなりません。再び事務職として町内の企業で働き始めると、それから40年近くの間、60歳で定年退職するまで正社員として働き続けました。

戦争で被害を受けた釜石の街は瞬く間に復興が進み、映画館や百貨店などは多くの人でにぎわうように。働く人たちの福利厚生のためのコンサートや演劇なども催され、テルさんはクラシック音楽を聴くのが楽しみになりました。

日本の高度経済成長は、小さな漁村だった大槌にも波及し、街なかには少しずつ商店が増え、テルさんの家があった町の中心部にはたくさんの家々が建ち並びました。「あのころは大槌もにぎやかだったわね。秋になると川にまでたくさん鮭が上がってきて、魚が獲れるとなんとなく町全体が元気になったものでした」。

そんな穏やかな大槌の日常を一変させたのが2011年の東日本大震災でした。自宅で1人暮らしをしていたテルさんはただならぬ揺れを感じ、すぐに身支度を整えました。それまでにも二度の大津波を経験し、前々日にあった地震の時もひと晩避難所で過ごすなど、日ごろから津波に備えていたテルさん。11日の揺れはさらに大きく、これまで経験したことのないもので、「必ず津波が来る」と直感し、近所の人たちと一緒に逃げました。「江岸寺の横の坂を登り、中央公民館まで上がって、そこで飲まず食わずでひと晩を過ごしました」。記憶は今も鮮明です。

大槌は「水が美味しく<br />
空気が清浄」
大槌は「水が美味しく<br />
空気が清浄」

大槌は「水が美味しく
空気が清浄」

命は助かりましたが、住み慣れた自宅を失い、思い出の品や長年働いて買い揃えたお気に入りの食器などすべてを流されてしまいました。親戚や親しい人も犠牲になりました。

町内の避難所で2ヶ月ほど過ごした後、内陸の温泉施設に避難し、仮設住宅に入ったのは真夏のころでした。80歳を超えてからの避難生活には大変なことも多かったはずですが、「私たちの世代は戦争中の苦しみを憶えているから耐えることに強いの」と多くを語りません。

津波によって多くのものを失いましたが、現在暮らしている災害公営住宅にも宝物があります。仮設住宅で生活していたころに購入したBOSEのスピーカー。大好きなクラシックを聴くために、人から薦められて選んだものです。被災者のための支援金で贅沢なものを買うのを申し訳なく思い、仮設ではスピーカーにふきんを掛けて目につかないようにしていましたが、ボランティアの人たちが設置を手伝ってくれた思い出のスピーカーです。

もうひとつの宝物。それは音楽を通じて生まれた町内外の人たちとのつながりです。復興支援のため大槌を訪れていた岩手県とゆかりのある音楽家と知り合い、大槌の人たちとともにテルさんもコンサート開催のために奔走し、2017年に実現させました。音楽を愛する人たちとの交流は今でも忘れられない思い出です。

震災前のような近所づきあいが減り、さみしさも感じているというテルさんですが、おしゃっちに行けば、誰かしら知り合いがテルさんを呼び止めます。貼り出されたポスターを見て、行きたいコンサートをチェックしたり、若い人から携帯電話の使い方を教わったり……もちろん若い人たちがテルさんから昔のことを教わることもしばしばです。

町の景色は大きく変わりましたが、おしゃっちの隣りの公園には震災前の大槌の日常だった湧水(ゆうすい)が残り、当時の暮らしを伝えています。「大槌は水と食べものが美味しくて、空気が清浄なところです」。大槌の魅力をそう話してくれたテルさん。時代は移り変わっても大槌の魅力は変わりません。
(2023年8月取材)

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