ココカラオオツチ

海を愛する3代目
釣りで大槌をもっと元気に

御箱崎釣具店、釣り船美嘉丸

昭和50年代に創業。御箱崎釣具店の店名は、大槌湾の北側の箱崎半島の突端部「御箱崎」に由来。美嘉丸は初心者や女性のための船上でのサービスを強化し、釣りファンを増やしている。
https://www.instagram.com/ohakozaki/

御箱崎釣具店、釣り船美嘉丸
御箱崎釣具店、釣り船美嘉丸
海を愛する3代目
釣りで大槌をもっと元気に

御箱崎釣具店、釣り船美嘉丸

昭和50年代に創業。御箱崎釣具店の店名は、大槌湾の北側の箱崎半島の突端部「御箱崎」に由来。美嘉丸は初心者や女性のための船上でのサービスを強化し、釣りファンを増やしている。
https://www.instagram.com/ohakozaki/

カレイ、イカ、メバル、タラ……さまざまな魚が水揚げされる世界有数の漁場・三陸の海は、雄大なリアス海岸の景色を楽しみながら大物が狙える人気の釣り場でもあります。そんな三陸海岸のほぼ真ん中にある大槌町で、40年以上にわたり太公望たちに愛されてきたのが御箱崎(おはこざき)釣具店と釣り船「美嘉(みよし)丸」。東日本大震災後にUターンし家業を継いだ3代目・大羽美年(おおば・みとし)さんは、釣りを通して大槌に人を呼び込み、大槌の海の魅力を伝えています。

御箱崎釣具店、釣り船美嘉丸
町唯一の釣具店 <br />
海とスポーツ愛する3代目

町唯一の釣具店 
海とスポーツ愛する3代目

「震災の前は大槌に5軒の釣具屋があったけど、今はうちだけ。ベテランの釣り師から初心者まで本当にいろんなお客さんが来てくれます」そう言いながら、ずらりと並ぶルアー(疑似餌)や仕掛けを説明してくれる美年さん。どんな人でも和ませてしまう人懐っこい笑顔は、父親の道廣(みちひろ)さんに瓜二つ。2人一緒に船を出す日もあれば、美年さんが船に乗り、道廣さんが店に立つ日も。大槌や近隣を釣り場とする人たちの間で知らぬ人はいない親子です。

地元だけでなく、盛岡や北上など100km以上離れた岩手県内陸部からのお客さんも多い御箱崎釣具店と美嘉丸。大羽家が釣りを家業にしたのは昭和50年代のこと。釣りが好きだった美年さんの祖父が事業を始め、道廣さんも20代のころから一緒に切り盛りしてきました。

釣り船の経営は「釣らせてなんぼ」の釣果がすべてという厳しい世界。よく釣れるポイントに船を留めておく操船技術はもちろんのこと、魚が集まる魚礁の位置を頭に入れた上で、今はどの魚礁に魚が付いているかを日々把握しておかなければ、お客さんを満足させることはできません。「ほかの船が行かない場所にどれだけたくさん行って下調べするか。"釣らせる”ための努力をどれだけするかで釣り船は決まる」と道廣さん。その姿勢は20代のころから変わりません。

そんな道廣さんの長男として生まれた美年さんは、幼少期は真っ黒に日焼けするまで友達と大槌の海で泳ぎ、高校までは野球に熱中するスポーツが大好きな少年でした。道廣さんからことあるごとに「オメエ(お前)がうちの墓を守るんだ」と言われたことが記憶にあって「長男だからいつかは大槌に戻って俺が家を継ぐんだと漠然と思っていましたね」。

県立大槌高校を卒業すると、都会に憧れて神奈川県へ。販売職を経験した後、子どもたちに水泳を教えるインストラクターの道に進みました。幼少期から大槌の海で泳ぎ、スポーツが大好きな美年さんにはぴったりの仕事。「人と話すのが好き」という持ち前の性格を活かして、水泳の楽しさを伝える日々。職場の上司にも恵まれ、やりがいを感じる毎日でした。

「俺、やっから」<br />
Uターンを決意
「俺、やっから」<br />
Uターンを決意

「俺、やっから」
Uターンを決意

「いつかは大槌に」という思いを心に留めつつ、憧れの都会でやりがいのある仕事に出会った美年さん。「いつか」は思いもかけない形でやってきました。

2011年の東日本大震災の大津波が故郷のまちを飲み込み、船だけでなく、海の近くに遭った釣具店の店舗、さらに新築したばかりの自宅も流されました。幸いにも両親は無事で、東京で暮らす姉が車で迎えに行き、震災から10日ほどたったころに再会することができました。

「何もかもなくなって、しばらくは先のことなど考えられなかった」と震災直後を振り返る父・道廣さん。しばらくすると「(店は無理でも)釣り船だけでも再開しよう」と思うようになったと言います。

「俺は釣りのことしかできない」と事業を再開しようとする釣り一筋の父。美年さんは、自分が大槌に戻り家業に加われば、事業や実家の再建の融資が受けやすくなると知り、「俺、やっから(やるから)」と道廣さんに伝えました。

美年さんの言葉に背中を押され、道廣さんは釣り船だけでなく、釣具店も再建することを決意。「美年が戻ってくるとなって、本格的にやろうかなと思ったね」。船は、美年さんと孫の名から1字ずつを取り「美嘉丸」と名付けた。少し昔気質(かたぎ)で跡取りの美年さんを厳しくしつけてきた道廣さんですが、美年さんへの感謝の気持ちは10年以上たった今も忘れることはありません。

仲間のおかげで今がある <br />
葛藤越え大槌の海で生きる 
仲間のおかげで今がある <br />
葛藤越え大槌の海で生きる 

仲間のおかげで今がある 
葛藤越え大槌の海で生きる 

美年さんが大槌に戻ったのは震災から2年後。2013年のことでした。大槌で過ごした高校時代までは野球に明け暮れ、たまに友達に誘われて岸壁から釣り竿を垂れる程度。釣りについては、ほぼゼロから学ぶことばかりでした。

そんな美年さんにさまざまな知恵を授け、励ましてくれたのは、子どものころ大槌で一緒に遊んだ同級生たちの存在でした。「釣り好きの同級生と一緒に釣り場に行って、実際にやってみて、それで釣りが好きになった。今の自分があるのは、釣りの楽しさを教えてくれた同級生たちのおかげなんです」。

大槌に戻っては来たものの、自分だけが津波を経験していないことへの複雑な思い、津波で仲の良い友人を失った悲しみ、そして海の仕事をすることへの葛藤……様々な感情に押しつぶされそうになり海を見たくないと思った時期もありましたが、同級生たちに支えられ、船長、そして釣具店の店主として必要なものを一つずつ身につけていきました。

努力を怠らない姿勢は父親譲り。日々1人で船を出し、魚礁の確認に余念がありません。女性や初心者が安心して釣りを楽しめるよう、船上でサポートするスタッフを配置するなどのサービスは若い美年さんならではです。

インストラクターとして培ったコミュニケーション力が活かされているのが、初心者への対応。釣り以外の話題も振りながら和やかな雰囲気を作り、「初めての釣りへの不安を解消してあげられるように心がけています」。

「Uターンしてきて一番やりたいことだった」という大槌湾クルージングの事業にも挑戦しました。防潮堤の建設などの復興工事のため、陸から海に近づくことが難しかった時期に「大槌の海からの景色見せたい」という思いを形にし、3年間で400人ほどの人たちを船に乗せた経験は、地域の経営者としての自信になりました。

震災からの時間の経過とともに復興工事が終わり、大槌湾を目の前に臨む公園ができるなど、環境は整ってきましたが、思い出の中にある砂浜や慣れ親しんだ街なかの風景が失われてしまったことへのさみしさがなくなることはありません。

「やっぱり小さいころから遊んでいた大槌の海が好きなんですよね。だから色んな人に大槌の海に来てほしい」と語る美年さん。これから先、大槌の海で生まれる楽しい思い出を増やしていくため、今日もとびきりの笑顔でお客さんを迎えます。
(2024年8月取材)

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