役に立ちたい
有限会社 ひび又屋
1910年ごろに越田又蔵さんが大槌町内で家庭金物の店として創業したのが始まり。その後、建築・土木用資材も扱うようになり、東日本大震災後は、建築・土木用資材など、大工などの職人が現場で使う商品を取りそろえる店として新たなスタートを切った。カーポート、フェンスなどの外構工事も行う。
https://www.instagram.com/hibi_works/
役に立ちたい
有限会社 ひび又屋
1910年ごろに越田又蔵さんが大槌町内で家庭金物の店として創業したのが始まり。その後、建築・土木用資材も扱うようになり、東日本大震災後は、建築・土木用資材など、大工などの職人が現場で使う商品を取りそろえる店として新たなスタートを切った。カーポート、フェンスなどの外構工事も行う。
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土木や建設の工事現場で使う資材やビス、釘、サッシなどの住宅用の設備機器、電動工具、草刈り機……工事のプロの必需品を取りそろえるのが「PRO SHOP ひび又屋WORKS」です。東日本大震災の津波で当時の経営者を失いながらも、越田峰水社長を筆頭に再起を期し、資材の供給を通じて大槌町の復興を支えてきました。
明治に始まったひび又屋
家庭金物から土木・建築金物まで
「ひび又屋」は明治の終わりごろ、曾祖母のヨシさんが鍋や釜などを扱う家庭金物の店として創業し、祖父が事業を拡大した会社です。越田さんが子どものころには、家庭金物に加えて土木・建築用の金物も扱う店になっていました。祖父が亡くなってからは、祖母が事業を引き継ぎ、叔母や従業員とともに店を切り盛りしていました。
ユニークな「ひび又屋」の名は、古くからの越田家の屋号に由来し、越田さんによると2つの説があるのだとか。ひとつは「日々新又日新(ひびにあらたにしてまたひにあらたなり)」という中国の格言から採ったというもの。もうひとつは「こっちが本当じゃないかと思うんですけど」と前置きし、「創業したヨシの父である又蔵は手指のひび割れがひどくて『ひび切れの又造』と呼ばれていたのが、店の名前になったという説です(笑)」と解説。どちらの説が正しいのか今となっては誰にも分りませんが、「ひび又屋」の名で地域の工事関係者らから親しまれています。
越田さんが店で働くようになったのは2005年、22歳のころ。高校卒業後は町を離れ、仙台の専門学校に通いながらアルバイトに励んでいましたが、子どものころから「おめぇ(お前)が継ぐんだ」と言われて育ち、自身もいずれは大槌に帰り店を継ぐつもりだったと振り返ります。「子どものころは、華がない金物屋より漁師のほうがカッコいいな、と思っていましたが、自分が後継ぎなんだと思い込まされていました(笑)」。
当時、町の中心部に家庭金物の店舗、海のそばに土木・建築資材の店舗がありました。大槌に戻った越田さんは、土木・建築資材の店に入り、ベテランの従業員から、資材の規格や用途などを教えられ、少しずつ商品や経営について学ぶ日々を送っていました。
転機は東日本大震災。
経営者は行方不明に。
「日々何となく働いていた」という当時の越田さんの状況を一変させたのは、東日本大震災でした。3月11日、越田さんは岩手県内内陸部に出張していました。家庭金物の店にいたとみられる祖母、叔母とは連絡が取れなくなり、3、4日後になんとか大槌に入ることができたものの、そのまま消防団の一員として行方不明者の捜索活動に加わりました。
津波と火災によって変わり果てた大槌町。2つの店は跡形もなくなっていました。「起こったことが大きすぎて、町がどうなるのだろうという不安しかありませんでした」と当時を思い起こす越田さん。店の経営者である祖母は見つからないまま、妊娠中の妻の実家がある隣町に身を寄せるうちに、季節は間もなく夏を迎えようとしていました。
「この先、会社をどうしていけばいいんだろう……」。時間の流れとともに越田さんは少しずつ冷静さを取り戻し、今後の事業について真剣に考え始めました。経営者を失い、店舗や在庫を流されただけでなく、取引先の情報などのデータすべてなくしたひび又屋を再開するのは難しいかもしれない、そう思う一方で、自分の手で家業を終わりにすることへの迷いもありました。
そんな時、偶然顔を合わせた昔なじみの先輩の「やってダメでも命まで取られるわけじゃねえべ!」という言葉が越田さんの迷いを振り切ってくれました。「先輩の言葉を聞いた時、ふと気が楽になり、店を再開しようという気持ちになったんです」。土木・建築資材に絞って営業を再開することを決め、無事だった従業員にもその意志を伝えて回りました。そこからは、銀行との協議や取引再開に向けた準備、仮設店舗の用地確保などに追われる日々が始まりました。
2012年1月に仮設店舗を構えると、その日から大忙し。流失を免れた住宅の修繕工事のための建築資材や、復興工事のための測量資材などの注文が相次ぎました。町の復興計画が策定され、復興に向けた動きが加速していくと、ひび又屋の忙しさも一層増していきました。
震災前の「何となく」働く日々から一転、「必死になって」商品や経営のことを覚える日々。「職人たちが欲しい時に来れば必ず商品がある店を目指してやってきました。万一、その時に商品がなくても、翌日までには何とか用意するようできるだけのことはしました」と振り返ります。現場で必要とされる資材を取りそろえるため、職人たちから資材の用途を丁寧に聞き取るなどして「復興工事に携わったことで、30~40年分の経験値を積ませてもらった」という越田さん。「がれきだけになった町が少しずつ復興していく様子を見ながら、自分たちの仕事が町の復興の役に立っているというやりがいを感じていました」と当時を語ります。
地域づくりにも力。
「子どもたちが元気な町に」
2015年には現在の場所に新しい店舗を構えたひび又屋。仮設から本設店舗への移行にむけて、国の「中小企業等グループ補助金」を活用し、町内事業者とともに事業計画を作成しました。その時、グループを組んだ同世代の経営者仲間を中心に「はまぎく若だんな会」を結成、地域づくりの取り組みも始めました。
海岸での映画祭や花火大会などイベントの企画運営のほか、町立大槌学園「ふるさと科」の出前授業など、震災前にはあまりなかった地域とのかかわりも増えてきました。「自分も親になり、大槌を子どもたちがいつまでも元気でいられる町にしたいと思うようになりました」。地元経営者として、子どもを持つ親世代として、さまざまな形で地域とのつながりを深めています。
食事中でも打合せ中でも、ひっきりなしにスマートフォンが鳴るのは日常茶飯事。どんな時でも対応できるよう、通話用のイヤホンマイクとメモ帳は必需品です。「ひび又屋は町を支えるプロの力になれる店でありたい。あって当たり前、ないと困る、それくらいの存在でいいんです」。大槌の暮らしを守り支える工事のプロの仕事を、さらにその下で支えるひび又屋はまさに縁の下の力持ち。今日も町内のどこかの現場で、ひび又屋が納入した資材が使われているのです。(2022年7月取材)