ココカラオオツチ

名もなき普通の人間として
吉里吉里で生きていく

芳賀正彦さん

芳賀正彦さん

はが・まさひこ

福岡県糸島市出身。エチオピアでの青年海外協力隊としての活動などを経て、1976年に妻光子さんの故郷大槌町に移住。自動車整備や自動車販売の仕事を経て、定年退職後に林業事業体のもとで森林整備事業を経験。2011年5月に吉里吉里国を設立、同年12月にNPO法人化した。

芳賀正彦さん

故郷の福岡、エチオピア、パプアニューギニアでの生活を経て、28歳で大槌町に移り住んで半世紀近く。東日本大震災後にNPO法人「吉里吉里国」を創設し理事長を務める芳賀正彦さんは、この地で津波を経験したことで、大槌町吉里吉里地区への思いをさらに深くしました。「立派な肩書もなく声なき声しか持たない普通の人々の汗と願いが込められたまちこそが本物のまち」と語る芳賀さんの信念とは――。

芳賀正彦さん
24歳、運命の出会い。<br />
そしてエチオピアへ

24歳、運命の出会い。
そしてエチオピアへ

福岡県の漁村で5人兄弟の末っ子として育った芳賀さんは「自動車整備士の技術を生かして開発途上国の力になりたい」と青年海外協力隊を志し、エチオピアで天然痘撲滅の活動に参加することが決まりました。日本では戦後の高度経済成長が終わろうとしていた1970年代初頭、貧しい東アフリカの国々では天然痘が致死率の高い感染症として恐れられていたのです。

エチオピアへの派遣を直前に控えた東京滞在中、24歳の芳賀さんは運命的な出会いを果たしました。大槌町吉里吉里地区出身の女性さんと偶然に知り合い、ともに漁村の出身という共通点で意気投合。後に妻となり、芳賀さんが大槌に移住するきっかけとなる光子さんとの出会いでした。

任地では、天然痘のワクチン接種を進める医療関係者らに同行して、道なき道のさらに奥にある小さな集落を訪ね、悪路を走る車の修理や整備に励む毎日。「国家官僚から部族の酋長、現地の住民まで、さまざまな人と酒を酌み交わしましたが、もっとも印象に残ったのはエチオピアの名もなき人たちの心の豊かさでした」と振り返ります。“名もなき普通の人たち”への敬意に満ちた芳賀さんのまなざしはこのころに芽生えたものでした。

電気もガスもない異国での2年間の支えとなったのは、日本にいる光子さんとの文通。2年間の活動を終えて結婚し、今度は光子さんを伴ってパプアニューギニアへ。ここでも自動車整備の腕を生かして働きました。

妻の故郷・大槌町に移住
妻の故郷・大槌町に移住

妻の故郷・大槌町に移住

28歳の時に帰国すると2人は光子さんの故郷大槌へ。5人兄弟の末っ子だった芳賀さんに対し、光子さんは4人姉妹の長女。芳賀の家を守るため、光子さんの姓を名乗ることになりました。小さな吉里吉里地区では、見慣れない顔があればすぐに噂の的に。「おめェー(お前)、旅の人間だべェ」。それが住民からの挨拶でした。

「『どこの馬の骨だ』と言われているようでもありましたが、遠くからよく来たなと歓迎してもらっているんだと自分に言い聞かせて、地域になじもうと努めました」。とはいえ、福岡訛りは抜けず、吉里吉里の言葉の意味が分からない。地域の人たちとの酒の席では酔ってけんかになることも数知れず。「何度も来るんじゃなかったと後悔して、もう一度海外で働こうと職探しをしたこともありました」。

海外では技術職として高給で雇われていた自動車整備士。青年海外協力隊の仲間の中には任期後も海外で活躍する人がいる一方、日本、それも地方のまちでは整備士の待遇は決して恵まれたものではありませんでした。芳賀さんが「俺は(海外に)行く」と言う度に、「ここにいてください」と返す光子さん。何度もそんな押し問答を繰り返すうち、とうとう光子さんは「そんなに行きたいなら行っていいですよ。この家は大丈夫ですから」と答えてくれました。「それを言われて逆に行けなくなっちゃった」と笑う芳賀さん。葛藤や迷いを抱えながら、少しずつ時間をかけて吉里吉里で生きていくことの覚悟が定まっていったのです。

芳賀さんは整備士や自動車ディーラーの営業マンなどサラリーマン、光子さんは保育士として、共働きで子育てをする日々。「それまでは海外に赴き、自分の好きなことをやって称賛されて生きてきた。だけど今振り返ると、勤め人としてお客さんや上司に叱られて落ち込んだり怒ったり……そうやって静かに普通に暮らしていく中で学んだことが、自分にとって一番の力になっていると思うのです」。

震災を経て、<br />
「芳賀さん」から「正彦さん」に
震災を経て、<br />
「芳賀さん」から「正彦さん」に

震災を経て、
「芳賀さん」から「正彦さん」に

大槌に暮らし始めて35年の時間が流れた2011年。大槌、そして吉里吉里は大津波に襲われました。芳賀さんと光子さんは避難所で互いの無事を確認し、最後の津波が去った後、がれきの山をよじ登り、自宅に向かいました。

たどり着くと、がれきの中に柱だけが残っていました。「ここにはもう住めない。福岡へ帰ろう」。芳賀さんは呆然として光子さんにそう告げました。光子さんは「私はこの家にもう一度住みたいです。この家の仏様を守って生きていきたいです」と静かに、しかし迷いのない口調で言いました。この言葉を聞いた芳賀さんは、自らの弱さを突きつけられた思いで、吉里吉里を去ろうと考えた自分を恥じました。

避難所の小学校に戻ると、400人近い吉里吉里の人たちが集まってきていました。「吉里吉里のごく普通の名もなき人たちが校庭に仁王立ちし、皆で生き延びるために動き始めようとしていました。その姿を見た時、私もこの人たちと共に吉里吉里で生きていこうと決めたのです」。

それから毎日、芳賀さんたちは燃料を集め、がれきとなった家屋の柱や梁を燃やして暖を取り、行方不明者の捜索や避難所の運営などに奔走しました。「毎日ともに働き避難所で枕を並べるうちに、それまでは『芳賀さん』と呼んでいた人たちが、『正彦さん』と呼んでくれるようになりました。35年たってやっと本当の吉里吉里人になれたのだと思いました」。

「旅の人」と呼ばれた移住直後、そして「芳賀さん」から「正彦さん」へ。若い日の葛藤を経て、自ら“普通の人”として吉里吉里で生きることを選んだ芳賀さんは、震災によって地域への思いをさらに強固なものとし、その思いが「吉里吉里国」立ち上げへと駆り立てていったのでした。地域に根ざして生きる芳賀さんの表情には吉里吉里人として生きることの誇りがあふれています。
(2022年6月取材)

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