ココカラオオツチ

浪板海岸の代名詞
オーナーはプロサーファー

k-surf

1992年釜石市内にオープンし、2003年に現在とほぼ同じ場所に移転した。ショップの横にはサーフボードの制作やメンテナンスのための工房もある。サーフレッスン、SUPレッスンは、初心者や子どもも参加できる。
URL: http://k-surf.sakura.ne.jp/

k-surf
k-surf
浪板海岸の代名詞
オーナーはプロサーファー

k-surf

1992年釜石市内にオープンし、2003年に現在とほぼ同じ場所に移転した。ショップの横にはサーフボードの制作やメンテナンスのための工房もある。サーフレッスン、SUPレッスンは、初心者や子どもも参加できる。
URL: http://k-surf.sakura.ne.jp/

どことなく南国のリゾートを思わせる開放感のある浪板海岸。ここにサーファーが集まってくるのはこの店があるから。「k-surf」はプロサーファーである杉本浩さんが経営するサーフショップです。少年時代、初めてサーフボードの上に立ったこの海で、良い波を待ちながら、海の楽しさを伝え続けています。

k-surf
サーフグッズが並ぶ店内<br />
窓の向こうはすぐ海

サーフグッズが並ぶ店内
窓の向こうはすぐ海

寄せる波ばかりで返す波がない「片寄せ波」の浜として知られる浪板海岸に並ぶ三角屋根の小屋。そのひとつに店を構えるのがサーフショップ「k-surf」です。サーフボードやサーフグッズ、ハワイアンテイストのファッションアイテムが並ぶ店内の窓の向こうは砂浜。太平洋につながる船越湾が光を浴びてキラキラと光ります。

オーナーの杉本さんは大槌町の南隣・釜石市の出身で、サーフィンを始めたのは中学生のころ。地元の先輩が経営する市内のサーフショップでサーフボードを手に入れ、向かったのが浪板海岸でした。浪板の海は三陸では珍しい遠浅で、初心者がサーフィンをするのに適していました。

すぐに夢中になった杉本さん。「波とタイミングがあった時の気持よさはそれまで味わったことのないものだった」と振り返ります。高校に入って間もなく「プロサーファーになろう」と決意すると、翌年には浪板に通うためバイクの免許を取得。一年中通い、テクニックを磨きました。

「海外とのレベルの差を埋めたい」との思いでまずは福島や湘南へ。19歳で渡米し、カリフォルニアに半年間滞在しました。海の街で暮らすアメリカ人たちのライフスタイルは、若き日の杉本さんに鮮烈な印象を与えました。海と言えば漁港、そんなイメージの三陸との違いは大きかったと振り返ります。当時、日本ではサーフィンと言えば“若者のカルチャー”。一方、サーフィン先進国のアメリカでは小さな子どもから高齢者まで家族みんなで世代を超えて楽しむレジャーでした。「当時は自分が50代になってサーフィンを続けているとは思わなかった」と笑います。

帰国後、「トライアル」と呼ばれる大会で成績を上げ、23歳でプロに。当時の日本はバブル経済の真っ只中。時給の良いホテルの配膳のアルバイトをしながら、国内やハワイの大会に出場する日々を送りました。

「波が来たらすぐ海に」<br />
浪板海岸に店を移転
「波が来たらすぐ海に」<br />
浪板海岸に店を移転

「波が来たらすぐ海に」
浪板海岸に店を移転

しかし、間もなくバブルは崩壊し、日本は不況に。バイトも激減しました。ちょうどそのころ、地元の釜石では、サーフィンを始めるきっかけになったサーフショップの閉店が決まり、サーファーたちに衝撃を与えました。当時はショップがないとワックスなどの必需品が手に入らなかったのです。「じゃあ(釜石に)帰って、俺が店をやるか」。店を経営しながら、貯めたお金で冬になればハワイ大会に出場。サーフィン中心の暮らしはどこにいても変わることはありませんでした。

店を浪板に移したのは2003年のこと。「良い波が来たらいつでもすぐ海に出られるところにいたい」。当時の浪板は、海開きの時期には800mの砂浜が海水浴客で埋め尽くされるほどのにぎわいで、杉本さんは夏場には海の家も開きました。

もちろんk-surfの中心にあるのはサーフィンです。体形やテクニックに合わせたサーフボードやウェットスーツの制作、ボードのメンテナンス、初心者へのレッスン……浪板に店を構えたことで、町内の人たちにも店の存在が知られるように。海岸の環境保全とサーフィンのイメージアップのためにビーチクリーン活動にも力を入れ、地域の観光にかかわる人たちとのつながりも深まりました。

2011年3月11日。杉本さんは店にいました。駆け上がった高台の上から津波で店が流されていくのをただ呆然と見ているしかありませんでした。翌日朝、家族のいる釜石に帰り、再び浪板に戻ってきたのは3月27日。店は基礎だけを残して、なくなっていました。さらに津波と地盤沈下によって浪板海岸の砂浜までも失われました。

しかし、ずっと海とともに生き、時間とともに海が変化することを体感していた杉本さんが絶望することはありませんでした。地形が変わり砂浜がなくなった海岸に下り、がれきの中からサーフボードやウェットスーツなどを探して歩きました。「希望を持つしかない」。自分にできることをやるだけでした。

世界中の仲間が支援<br />
11年経て「海開き」
世界中の仲間が支援<br />
11年経て「海開き」

世界中の仲間が支援
11年経て「海開き」

杉本さんの希望に灯をともし続けたのは、サーフィンを通じて出会った仲間たちの存在でした。支援物資を積み込んだ全国、そして海外のサーファー仲間が杉本さんのもとへ駆けつけ、「また浪板でサーフィンをしよう」と背中を押してくれました。

震災から3ヶ月たち、百箇日(百日忌)が過ぎた6月には、震災後初めてのビーチクリーン活動を実施。海岸のがれき撤去の活動を行いました。その中には千葉や仙台から駆けつけた人たちの姿もありました。杉本さんは仮設店舗で営業しながら、もう一度浪板に砂浜を取り戻そうと、砂浜再生のための署名活動もスタートさせました。

それから11年後の2022年7月。浪板海岸で震災後初めての海開きが行われました。この日を待ちわびていた杉本さんの目には、ひさしぶりにたくさんの海水浴客でにぎわう砂浜が映っていました。震災前のにぎわいには及びませんが、11年という時間をかけて少しずつもとの浪板海岸に近づいています。

サーファー人生のきっかけを作った浪板に店を構えて20年。「波とタイミングが合った時の気持ちよさはサーフィンでしか味わえない。初心者に適した浪板の海でその感覚を味わってほしい」。明るく心地よい浪板海岸で杉本さんが待っています。
(2023年6月取材)

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