松永いづみさん
まつなが・いづみ
短大保育科を卒業後、ショー出演者、ダンス講師、青年海外協力隊を経て、2012年に三陸へ。復興支援員、認定NPO法人「遠野山・里・暮らしネットワーク」などで活動し、2017年からはNPO法人「吉里吉里国」の事務局として働き始め、2022年から事務局長。趣味は編み物とダンス。
松永いづみさん
まつなが・いづみ
短大保育科を卒業後、ショー出演者、ダンス講師、青年海外協力隊を経て、2012年に三陸へ。復興支援員、認定NPO法人「遠野山・里・暮らしネットワーク」などで活動し、2017年からはNPO法人「吉里吉里国」の事務局として働き始め、2022年から事務局長。趣味は編み物とダンス。
長年住み慣れた東京での生活、JICA青年海外協力隊としてのアフリカでの活動を経て、東日本大震災後に三陸で暮らし始めた松永いづみさん。NPO法人「吉里吉里国」の事務局長として働きながら、副業で地域の団体運営にもかかわり、夫や義理の両親との大槌暮らしを楽しんでいます。大槌に根を下ろして生きる松永さんだからこそ日々感じ取れる「ちゃんと暮らしているという実感」がありました。
多忙な東京生活から
途上国・マラウイへ
大学卒業後、ショー出演者として活動、その後は子どもたちにダンスを教えるインストラクターとして働いていた松永さん。やりがいを感じつつも、忙しい毎日を送る中、電車の中吊りがふと目に留まりました。それは青年海外協力隊募集の広告でした。飢餓に苦しむ人々やゴミの山の中で暮らす子どもたちの写真は、世界はまだ自分が知らないことばかりなのだという現実を突きつけ、松永さんの心に強い印象を残しました。
「現実をこの目で見て、自分にできる方法で力になりたい」。中吊り広告をきっかけに、松永さんは青年海外協力隊として途上国に行くことを決意。赴任先は、南部アフリカの最貧国のひとつマラウイ共和国でした。電気や水道も一部の地域しか通っていない国で、“エクスプレッシブ・アーツ(表現芸術)”という教科の指導がミッション。楽譜を読めない小学校の教師たちに、ピアニカを使って音階や音楽の指導方法などを伝える日々を送りました。
マラウイは経済的には貧しい国でしたが、バスの中では自然に合唱が始まり、人が集まればダンスが始まる、そんな自由で笑顔のあふれる国でもありました。自由に身体を動かし表現する彼らにとっては、ダンスも歌も暮らしの一部。表現活動を教育に盛り込むために活動しながらも、表現に正解はないということに気づいた2年間でした。
積み重ねた経験を活かし
地域のニーズに応えて働く
任期の途中、遠く離れた日本では東日本大震災が発生。ちょうど1年後の2012年3月に任期を終えて帰国し、9月からは被災地で働くことを決めました。派遣先は釜石。青年海外協力隊出身者で組織する「JOCA(青年海外協力協会)」と釜石市が連携して運用する復興支援員の一員として、被災した子どもたちを対象としたイベントの企画や、ニュージーランドに渡航する子どもたちの引率などを担当しました。
その後は被災地支援に取り組むNPOに所属し、仮設住宅や復興住宅での孤立防止とコミュニティ形成のための“お茶っこ”や手芸などコミュニティサロンの企画・運営などを担ってきました。釜石での生活の拠点は、中山間地域の仮設住宅。洗濯物の隣に新巻鮭や一夜干しの魚が干してあったり、家を出たらサルがいたり。女性たちがサロンに持ち寄る自慢の漬物やがんづき(岩手の郷土菓子)は、松永さんの目には新鮮に映りました。
東京にいた当時は「近くに駅とコンビニがないと困る」というライフスタイル、一方、マラウイでは近所の人が捌いた鳥をみんなと一緒に食べる暮らしを体験し、「東京の都会暮らしと自給自足的なマラウイでの暮らしの間に、被災地での暮らしがあるように思えて、心地よさを感じたことを覚えています」と振り返ります。
仮設住宅での活動が終わりを迎えようとしていた時期、自身と同じく青年海外協力隊出身の芳賀正彦さんと親しくなり、芳賀さんが理事長を務める吉里吉里国で事務局スタッフとして働くようになりました。森林整備のための事務作業や体験活動のために訪れる学校などとの調整や資料作成のほか、芳賀さんらとともに恒例の「薪まつり」の運営などを担当しています。
「町外の人、地元の人という垣根を越えて、薪割りで汗を流し、笑顔で交流できる場所であり続けたい。その一端にかかわれることが幸せです」と話す松永さん。町内の団体でイベントの企画運営などを担うなど、さまざまな場面でこれまでの経験を活かしながら働いています。
都会とは違う忙しさと
豊かさにあふれた大槌
プライベートでは、2013年に大槌町の男性と知り合い結婚。頻繁に夫の実家と行き来し、義父に鯖釣りに連れて行ってもらったり、義母にほやのむき方を教わったりしながら、地域に根ざした暮らしの中に身を置いています。「最初は『魚の捌き方を覚えなきゃ』『料理もうまくならなくちゃ』と自分でやろうとしましたが、自然と『自分よりうまくできる人にお願いすればいいんだ』と思うようになりました」と言う松永さん。東京で毎日夜遅くまで頑張ることに疲れた経験があるからこそ、適度に力を抜くすべが身についたのかもしれません。
山で山菜を採り、海で釣りをするのが日常の義父。食卓にはわらび、しそ、山椒、しいたけ、鯖……海の幸、山の幸があふれています。「まつたけも鯖も、お義父さんは『今日行かないと』って言うんです。昨日でもなく明日でもなく今日。そうこうしているうちに、あっという間に1年がたっていて(笑) 東京とは全く違う忙しさが大槌にはあるんです」と楽し気に語ります。「『こんな田舎に』『何もないでしょう』と地域の人は言いますが、『いっぱいあるじゃん!』って私は思います」。(2022年6月取材)